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こだわりの珈琲店を巡る

第三回
 渋谷 名曲喫茶ライオン

こだわりを受け継ぐ、クラシック喫茶の草分け

渋谷の歴史と共に歩む、洋風建築の喫茶店

坂の繁華街、しぶや百軒店

渋谷は坂の繁華街だ。道玄坂、宮益坂、南平坂、八幡坂、松見坂、金王坂。近年はスペイン坂、オルガン坂、間坂(まさか)といった、時代を反映したような名を持つ坂も多い。そんな渋谷の、スクランブル交差点から目黒方面へ抜ける道玄坂一帯の飲食街は「しぶや百軒店(ひゃっけんだな)」と呼ばれている。1923年の関東大震災で被災した浅草や銀座の名店を百軒以上誘致することで生まれた。往時は「しぶや百貨店」と呼ばれる中心街だった。

戦禍からよみがえった、洋風建築の喫茶店

百軒店のアーケードから坂を登りきったところに「名曲喫茶ライオン」はある。創業は1926年。和暦では大正15年、昭和元年になる。
1945年の東京大空襲により、商店街のほとんどが全焼した。ライオンも被害を受けたが、隣接の喫茶店を買い増しして、5年後の1950年に初代同様の設計デザインでよみがえった。古城を思わせる3階建ての洋風建築だが、地下1階は防空壕で戦争の爪痕が今なお残っている。

モダンボーイが開業した、都内初の名曲喫茶

歴史を感じさせる、名曲喫茶の草分け

店内に足を踏み入れると、もっとも印象的なのは薄暗い店内に屹立する立体音響だ。再建の際に特注したものだという。この巨大スピーカーと対面するように、深紅のビロード張り背高椅子が各階に30席ほど配置されている。天井吊りのシャンデリア、そして店内の至るところに掲げられた大作曲家の自画像やデスマスクが、店の伝統を感じさせる。レコード5,000枚、CD500枚以上を所蔵しているという。欧州の伝統的なコンサートホールのような重厚な佇まいで一世紀近くクラシックファンを魅了してきた名曲喫茶の草分けである。

創業者は造り酒屋の御曹司で、モダンボーイ

創業者の山寺弥之介氏は、会津若松の造り酒屋の御曹司だった。大正末期に母親と共に上京し、1926年に恵比寿(並木橋)で喫茶店「ライオン」を開業した。半年後に渋谷への移転を決めたが、砂利道の不衛生な駅前を避け、標高15mの小高い坂の上に店舗を構えた。開店当初は流行歌ばかり聞かせていたが、常連客が持ち寄ったクラシック・レコードの楽曲に触発され、当時の都内にはまだなかったという「名曲喫茶」に鞍替えした。

「創業者は、感覚の鋭い方。趣味人でモダンボーイでした」

「パパさん」と呼ばれた創業者の印象を語るのは三代目店主の石原圭子氏(86歳)。夫で二代目の石原宗夫氏(故人)は、創業者の義弟にあたる。2007年に77歳で永眠した宗夫氏の後を継いだ。

「帝都随一」の音と味わう、ロンドン仕込みのコーヒー

「帝都随一」、そして世界も注目した音響装置

「パパさんは、店舗の設計から内装まですべて自分で手掛ました。調度品の彫り物やプラカードも自作です」

何事にも専心し徹底的にこだわる弥之助氏の性分は、「帝都随一を誇る」とうたった音響装置の製作でも本領を発揮する。当時のこだわりが、雑誌『サライ』(小学館発行/1995年第4号)に記されている。二代目・宗夫氏が生前に語った、戦後の店舗再建の際にオーダーメードしたスピーカーに関する説明だ。実際のオーケストラは、基本的にステージでは向かって左側に高音楽器、右側に低音楽器が並ぶ。ステレオ録音ならこの配列をそのまま再現できるが、モノラル録音では不可能だ。そこで、モノラルの音でもステレオに近い音を再現するために、スピーカーを左右非対称にし、低音と中高音を3つに分けた4チャンネルスピーカーを設計したという。開発には、某大手家電・音響メーカーの研究所に勤めていたエンジニアが協力した。常連客だったそうだ。その後、このオーディオ・システムは、米国の音響専門誌『AUDIO』の1958年12月号で全ページにわたって写真入りで大きく紹介され、世界的な名声を得た。

午後3時と7時の「定時コンサート」

ライオンでは、毎日午後3時と7時に「定時コンサート」を開催している。レコード会社の担当者が新譜を持参して紹介した頃の名残だそうだ。テーブルにコーヒーなど注文の品とともに、作曲者・曲目・演奏者の月間プログラムを記載したリーフレットが配られる。演奏が終了すると、女給がその都度、楽曲をアナウンスする。これもライオンならではしきたりだ。
定時コンサート以外の時間帯は、気軽にリクエストに応じてくれる。私は一枚のレコードをリクエストした。グスタフ・マーラーの交響曲第二番ハ短調「復活」だ。指揮はブルーノ・ワルター、演奏はウィーンフィル管弦楽団。1948年5月15日の録音だ。歴史的な名演奏が、帝都随一の音響装置から店全体に鳴り渡る。雷鳴に激しく打たれたような導入部の音の響きに、私は身震いした。

ロンドン仕込みのコーヒーは、名曲と共に時代を超える

コーヒーは一杯550円(※)。パパさんの従兄弟がロンドンの「ライオンベーカリー」で修業して覚えた直伝の抽出法「湯煎式」で淹れている。豆は、現在は浅草の石川コーヒーから仕入れているが、三代目・圭子氏がアメ横まで買い出しに行き、店に戻ってミルで挽いた時期もあったという。圭子氏は現在も、この「湯煎式」でコーヒーを淹れるのを毎朝の日課としている。
設計、音響、内装、コーヒー…。創業者があらゆる点を徹底的にこだわることで築き上げたクラシック喫茶の名店は、義弟夫妻が継承し、石原夫妻の次男で電気技師である四代目に受け継がれようとしている。大正、昭和、平成、そして令和。時代の移り変わりの中で、名曲の調べはいつまでも奏でられていくだろう。誇り高き珈琲の香りと共に。

※2019年5月現在

取材メモ

元祖「山ガール」の行動派

三代目・圭子氏の趣味は登山。家族との富士山登頂をきっかけに、山に魅了されたという。立山、白馬・八方尾根にそれぞれ三度登った。思い立ったら一人で出掛ける、正真正銘の山ガールだ。
足腰を鍛えぬいた行動派は過去に6度ほど渡欧して、ウイーン、スイス、ザルツブルグなどの名所旧跡を訪れたそうだ。

「モーツァルトの生家が印象に残っています。時間があればピラミッドを見てみたい」

そう語る圭子氏の表情は、終始ポジティブだった。

名曲喫茶ライオン

ADDRESS:〒150-0043東京都渋谷区道玄坂2-19-13
TEL:03-3461-6858
営業時間:午前11:00~午後10:30(日曜営業)
席数:1階70席、2階60席
全席喫煙可

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