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現存最古の老舗「カフェ―パウリスタ」
関東大震災で焼失した伝統を引き継ぐ「昭和パウリスタ」
再開して半世紀

東京・銀座八丁目の中央通り沿いに店舗を構える
「カフェ―パウリスタ」

東京・銀座八丁目の中央通り沿いに店舗を構える「カフェ―パウリスタ」は現存最古の喫茶店として、その歴史以上に多くの話題を提供し、日本のコーヒー文化の発展に貢献してきた。銀座本店は1923年の関東大震災で焼失したが47年の空白期間を経て1970年に復興再開して来年で半世紀を経過する。銀座に生まれたコーヒー文化、喫茶店の時代を築いてきた百年以上の伝統と歴史は今後も末永く継承されていく。

PAURISTAは「サンパウロっ子」の呼称

ポルトガル語でPAULISTAは「サンパウロの住民」の意味で「江戸っ子」と同様に「サンパウロっ子」の呼称として親しまれている。

サンパウロは、ブラジル最大の商業都市。中心街から約60㎞離れた同国最大の輸出港サントスはコーヒー生豆や大豆などを海外に積み出す港町。111年前の1908年6月18日。神戸港を出航して約50日間の船旅を終えた第一回移民船「笠戸丸」の一行781名が異国の土を踏んだ場所だ。

戦前戦後に亘り約25万人もの移住者を送り出した移民事業の立役者で皇国植民合資会社社長、後に「カフェ―パウリスタ」を創業した水野龍(みずのりょう)も団長として同行した。

1900年代初頭ブラジルは、コーヒー生豆の過剰生産で膨大な在庫を抱え、加えて相場の下落から泣く泣く海上投棄や焼却処分するなど深刻な事態に直面していた。

こうした中で同国政府は日本市場へのブラジルコーヒー普及と販路拡張を目的に、また移民事業推進の見返りとして「東洋における一手宣伝販売権」を水野に与え、同時に長期に及ぶ生豆の無償提供契約を結んだ。結果として無償豆の提供は1912年から23年まで12年間継続され、その数量は毎年約1千袋(杯数換算で約600万杯相当)に及ぶ膨大なものであった。

銀座七丁目にて操業

使命感に燃えた水野は、社員2名をパリに出張させてカフェを多数視察、特に感銘を受けた老舗「プロコプ」(創業1686年)の店舗運営を参考にした。そして銀座七丁目角に白亜の洋館二階建てを新築、1911年12月から本格的な操業に乗り出した。

店舗所在地は、現在の交詢社ビル(当時の時事新報社)の真向かい、今は「丸嘉ビル」が建つ地番(銀座七丁目七番一号)に間口5間・奥行8間、敷地面積は約40坪であった。

当然コーヒーは100%ブラジル。しかも一杯単価は5銭。ドーナッツやサンドイッチも5銭の安価。近隣の会員制カフェ「プランタン」や美人喫茶「ライオン」など競合店の半分以下であり、庶民派カフェとして盛業を極めることになる。当時のプランタンは一杯15銭。因みに五銭は現在価値で150円、15銭は600円。

コーヒーは一日最大4千杯も売れたようだ。大量抽出可能な湯煎式アーンをフルに活用して需要に応えた。大衆の支持を集めるとともに、近くの朝日新聞社や時事新報社からの往来客も多く訪れ、知識文化人や学生の溜まり場となって、社会や文化の形成に計り知れない環境を提供したのである。

婦人解放運動の発祥地「レディースルーム」

中でも有名なのは、平塚雷鳥や与謝野晶子など作家や女優の松井須磨子が中心の女流文学者集団「青鞜派」が根城にした本店二階喫茶室「レディースルーム」は婦人解放運動の発祥地として名高い。

同じく銀座本店で斬新だったのは、それまで女給と決まっていた給仕に少年を登用したこと。それも『海軍士官の制服を模し、肩章、金ボタンをつけた純白の上着に黒ズボンで、15歳未満の清潔感のある子供たちであった』(長谷川泰三著『カフェ―パウリスタ物語』)

最盛期は全国に26店舗を数えた。関東は銀座本店、以下支店として丸の内、伝馬町、堀留、神田、丸の内、錦町、早稲田、新宿、日比谷、浅草、横須賀、北は札幌、仙台、東海は名古屋、関西は道頓堀、戎橋、長堀橋、松島、京都、三ノ宮、さらに福岡、上海にも雄飛。今日のFC展開の先駆けだったと云えるだろう。

しかし順風満帆だった喫茶店経営に暗転が音を立てて襲う。1923年に無償豆の提供が予定通り打ち切られ、また同年9月1日の関東大震災で本店などが焼失する大打撃を被った。結果として『全国の店舗をそれぞれの経営者、またはその共同経営者につぎつぎ譲渡して、喫茶店経営から手を引くことになる』(同著)

「株式会社カフェ―パウリスタ」を1969年に設立

その後経営権は二代目の水野邁郎社長(水野龍の甥)から、当時焙煎を担当していた長谷川主計に譲渡した。三代目の長谷川社長は卸業務一筋で邁進。戦前より横須賀海軍基地に軍需品のコーヒー豆を納入してきた実績、有名ホテルと長年の取引で培った知名度や信頼のブランドは右肩上がりの喫茶需要に適応、経営は順調だったが1968年に逝去する。急遽大手製紙メーカーを退社し四代目に就任した長男の浩一社長は当初よりカフェ―パウリスタ銀座本店の再開と、従来の本社工場とは別に千葉県に新鋭工場を建設(1988年完成)することに執念を燃やした。

「交詢社から徒歩2~3分の中央通りにテナント物件がある」と聞かされ、早速「株式会社カフェ―パウリスタ」を1969年に設立、翌70年10月には長崎放送ビル一階に待望の店舗を開業した。大震災から約半世紀のブランクを経てパウリスタ銀座本店が甦ることになったのである。

一階は全50席の革張りソファー。壁面には、農園で働く農夫を描いたコロンビア製銅版数点と、縦長の鏡がアクセントを放っている。ジョン・レノンが暗殺される二年前の1978年にヨーコ・オノと連れ立って投宿先の帝国ホテルから三日連続で来店した折、二人でサインした貴重なコーヒーカップ&ソーサー(現物でなく写真)も奥の棚に飾られている。

さらに2014年9月には、画廊が立ち退いた二階に禁煙室(テーブル50席とカウンター8席)を増設した。こちらはブラジル在住日系人画家の絵画を飾っている。レジ横には浩一氏の実弟で五代目の長谷川泰三社長が著述した『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェ―パウリスタ物語』(文園社刊/税込価格1836円)を陳列。同著はノンフィクション部門最優秀賞作品賞の受賞作。偶に著者が来店してカウンターで無農薬栽培珈琲の「森のコーヒー」を嗜まれるそうだ。

コーヒー界の哲学者、ブラジルコーヒーにおける自然農法の先駆者と称されるジョン・ネット氏の栽培農法を実践する契約農家から直接仕入れるトレサビリティコーヒー。農水省の定める「JAS有機認定」とブラジル唯一の国際有機栽培認証機関であるIBDの認証を取得した安全安心なコーヒーである。「森のコーヒー」はカフェ―パウリスタの新たな時代を象徴する珠玉のコーヒーだ。

memo 取材メモ

カフェ―パウリスタのモーニング・セットは銀座界隈でも一番の品質とボリュームを誇る。他店を圧倒するコストパフォーマンスに、筆者はオーダーストップの11時半前に駆け込んで早めのランチとしていた時期がある。近年は銀座にもチェーン店が乱立してモーニング戦争が吹き荒れているが、価格の多寡は別にしても質と量は今も堅持している。

カフェ―パウリスタ

所在地
東京都中央区銀座8―9-16
長崎センタービル1~2階
電話番号
03-3572-6160
営業時間
1階(50席喫煙可)平日・土曜日8時半~21時半
/日曜日・休日12時~20時(日・休日は禁煙)
2階(50席全日禁煙)平日・土曜日12時~20時
/日曜日・休日12時~20時